最初に結論から書いてしまうと、商談用に買ったのは1万円のカシオで、これはケチったわけではなく、そのほうが交渉で有利だと判断したから選んでいる。

時計は、相手の視線が勝手に行く数少ない小道具だ。そして厄介なことに、高すぎても安すぎても情報を出す。高ければ「儲かっているらしい」、安すぎれば「余裕がないらしい」。どちらも、こちらが自分で言っていないことを相手に伝えてしまっている。

だから長いあいだ、商談のときは時計を外していた。今回その運用を少しだけ変えたので、何をどう考えて変えたのかを書いておく。

なぜ商談で時計を外していたのか

理由は単純で、情報ゼロで出ていったほうが強いからだ。

交渉の前半でやることは、相手の状況を掴むことに尽きる。こちらの手札を先に開く必要はどこにもない。ところが時計は、こちらが黙っていても勝手に喋る。ブランドがわかる人にはグレードまで伝わるし、わからない人にも「高そう/安そう」の二択くらいは伝わる。

しかもこれ、相手によって最適解が反転するのがまずい。同じ1本が、ある相手には「信用できそう」に働き、別の相手には「こっちの金でそれを買ったのか」に働く。相手ごとに正解が変わるものを身につけていくくらいなら、置いていったほうが事故が起きない。

つまり外していたのは、時計が嫌いだからでも、興味がないからでもない。変数を1つ減らすためだった。

選択肢が「G-SHOCKか高級時計」しかなかった

ただ、この運用にはずっと引っかかっているところがあった。

外す判断が正しかったのは、手持ちがG-SHOCKか高級時計の二択しかなかったからだ。前者は仕事の場でカジュアルすぎるし、後者は上に書いた通り情報を出す。真ん中がないから「じゃあ外す」になっていただけで、真ん中があれば話は変わる。

そこで探したのが、安くて、地味で、しかし説明が要らない時計という条件だった。

  • 1万円前後(高いと情報が出る)
  • 黒の文字盤・黒のベゼル・黒のバンド(色でも情報が出る)
  • 3針+日付だけ(複雑な機構は話題を呼ぶ=また情報が出る)
  • 金色を使わない
  • そして「それ何ですか」に一言で答えられる

最後の条件が一番大事だった。ここは後で詳しく書く。

条件に合ったのがカシオのダイバーズで、価格は1万1000円。これで「高すぎ/安すぎ」のどちらにも当たらない状態を、時計を着けたまま作れるようになった。

「それ何ですか」に答えがあるか

同じ1万円で、まったく別の選択肢も検討した。フリマアプリに大量に出ている、高級時計のデザインをそっくり真似た無名の時計だ。9800円。ケースはステンレス、風防はサファイア、日本製のムーブメント。スペックだけ並べれば、カシオより上に見える項目すらある。

買わなかった。理由はスペックでも値段でもなく、「それ何ですか」と聞かれたときに答えがないからだ。

ここは自分でもあとから気づいたところで、書いておきたい。

情報ゼロで出ていく、と言うとき、多くの人は「目立たなければいい」と考える。俺もそう考えていた。でも違った。無名の時計は「情報ゼロ」ではなく、「よくわからない安物」という情報を出している。相手の頭の中に「何だろうこれ」という引っかかりを残した時点で、それはゼロじゃない。

カシオなら「カシオです」で会話が終わる。終わることが機能だ。1万円という同じ金額で、名前がついているかどうかだけで、着地がここまで変わる

ついでに言えば、有名ブランドのデザインを真似た時計は、ロゴが入っていれば単純に偽物だし、ロゴが入っていなくても「本物に見せたい人」という読まれ方をする余地が残る。信用でやっている仕事で、そのリスクを1万円のために取る意味がない。

世界一の金持ちが同じ時計をしている

これは選んだあとに知ったことなので、理由ではなく答え合わせとして書く。

ビル・ゲイツが、これとほぼ同じカシオを着けている。テレビ番組に着用して出ていて、時計好きの外にまで知られている。通り名は「貧乏人のサブマリーナ」だ。スイスの時計ブランドを丸ごと買える人が、1万円のカシオを着けている。

似た話はいくらでもある。ユニクロの創業者はカスタムウォッチとスウォッチを着けているし、スティーブ・ジョブズが長く着けていたのは2万2000円のセイコーだった。

ここから引き出せることは1つで、上に行くほど、時計で語らなくなるということだ。

相手が金持ちなほど「外す」に寄せる

これがわかると、運用がきれいに決まる。

相手が個人商店のオーナーなら、地味な1万円の時計を着けたままでいい。マウントの土俵に乗らないし、こちらの旗とも矛盾しない。

逆に、相手が本物の資産家や大企業の役員のときこそ外す。理由は2つある。

1つ目は、そういう相手には見る目があるからだ。中途半端な高級時計は一瞬で格付けされる。100万円の時計は、その世界では入口であって上がりではない。着けていくと「同じ土俵に乗ってきた」と読まれ、しかもその土俵で一番下につく。乗った瞬間に負ける勝負を、70万円払って買いに行くことになる。

2つ目は、向こうがもう降りているからだ。上に書いた通り、本当に上にいる人ほど時計を降りている。こちらが降りていても不自然にならないどころか、同じ側に見える。背伸びした1本を着けていくと、そこだけが浮く。

そして身も蓋もない話をすると、なめられるかどうかを決めているのは時計ではない。相手が実際に見ているのは、靴と、清潔感と、姿勢だ。時計に予算を回すくらいなら、靴を直して、髪と眉を整えたほうが同じ金で効く。

まとめ

  • 商談用に買ったのは1万円のカシオ。地味で、黒で、一言で説明が終わる
  • 判断基準は値段でもスペックでもなく、「それ何ですか」に答えがあるか
  • 無名の高級時計そっくりさんは「情報ゼロ」ではなく「よくわからない安物」という情報を出す
  • 相手が上に行くほど、時計は外す方向に寄せる。土俵に乗った時点で一番下につくから
  • なめられるかを決めているのは時計ではなく、靴と清潔感と姿勢

高い時計を着けている人を否定したいわけではない。好きで着けているなら、それはただの趣味で、口を出す話ではない。俺が言いたいのは、「時計で信用を買えるらしい」という前提のほうが怪しい、ということだけだ。

その前提を疑ったら、必要だったのは1万円だった。

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